人生と麻雀

タコスさんブログを読んで自分も書きたくなったので

0歳 北風が肌をツンと刺す季節に俺誕生。全生物の強さのランクが自動的に1つ下がる

6歳 親父がやっていた謎の超絶アナログ携帯麻雀ゲーム機(起動するとテーレレテレテレテーレレレー♪ピッピッピッピッピッ♪と音が鳴り配牌が配られCPUとのサシ対局が始まる。恐らく地球上で親父しか持ってない)で麻雀の存在を知る。1回くらい興味本位で触った気はするがわけがわからずすぐ辞める

8歳 親父がプレステのTHE 麻雀をプレイしてたのを見て自分もやってみる。しかしルールがわからずポンとかチーとかいう用語が存在してるのは分かったがこれドラクエのがおもろくね?となりドラクエ7を4周する。

あとこの時人生で一番アホだったので年に二回骨折する。1回目はウンテイで遊んでる時にヒジから落下でヒビ、2回目は友達のアパートの外で遊んでる時に2階へ登る階段の踊り場から飛び降りたらカッコ良くね?という話になり全員で試しに階段上がってみて上から見たら怖くて無理だなとなったけど、降りて下から見たら結構低く見えてこれ俺イケるわ行くわ、となりジャンプしたら両足骨折し救急車で運ばれ全治3週間。ここから得た人生の教訓は「やる必要の無いことはやらない」

高1〜2 念願の携帯電話を入手。音楽サイトでELLEGARDENを始めとする邦ロックやHIPHOPと出会う。当時はモバゲーが流行っておりELLE好きの女子と知り合い告白したがフラれる。そしてここから大1までで怒涛の告白5連敗を達成する事となる。部活とモンハンとREDSTONEというネトゲの日々で麻雀の存在は記憶から消えていた

高3 受験勉強を始めたが大学は遊びに行くと決めていたので麻雀覚えといた方がいいんじゃね?となり合間に天鳳とジャンナビを始める。多分天鳳はnonameで打っていた。ママに天鳳してる所を見つかり「あんたなんかどこにも受からない」と度々怒られが発生するも親の見てない所でめちゃくちゃ勉強する天邪鬼タイプだったので無事第一志望に合格する。

大学生 地元静岡から東京移住、一人暮らし開始。サークルを5つ掛け持ちする(3つくらいバスケ)。それだけ入れば案の定麻雀好きも一定数おり人生初の雀荘及びセット(点5)を経験する。ネットで培った持ち前のゼンツ麻雀を遺憾無く発揮し無事3k負けを喫する。対リーチに即で無筋赤5pをプッシュしてハネマンと言われた時の絶望感とお前マジかみたいな空気は今でも記憶に残っている。その後も6畳一間に自動卓を置いてろくに寝る場所も無くなってるアホな先輩などと度々セットをし麻雀にのめり込んでいく。麻雀やるような大学生は全員イキリなので徹マンというものにやたら憧れていてセットの時間は必ず夜〜明け方なので次の日の1,2限は家で寝るか教室で寝るかの2択だった。天鳳はマック01みたいな名前で最初始めてIDを紛失する度に数字を増やしていって現在の04まで増えた。大学の時は最高二段とかだった気がする。後は64スマブラ強いやつが偉いみたいなサークルがあったのでめちゃくちゃスマブラしてたのとネトゲとアニメとニコ動とYouTube見てた。チンカスみたいな成績だったが地頭のお陰か留年はせず卒業。

社会人 先輩に連れられフリーデビュー。めちゃくちゃツイて指差しロンを多用してたら普通に怒られる。天鳳にもハマり激務をこなしながら最高月200半荘打ってた。初めて特上打った時六段3人と当たってクソボコにされたのがトラウマとなり、その後は五段になるまで上卓で打っていた。五段になって特上打ち始めたあたりでもっと麻雀の情報集めてえなというアツい思いを持って今のツイッター垢を作った。その後六段まで行ったが激務すぎるし仕事辞めて転職活動しながら天鳳打ち亭となり同じく仕事を辞めた当時彼女だった嫁と北海道へ

退職後 戦術本やゲンマ、鉄強のブログを読むなどして鳳凰卓へ到達する。オフにも行き始める。自分のやりたい事ができたし天鳳民の知り合いも増えて人生サイコーとなってた時期

転職後 結婚し子どもが産まれる。赤3金3やら白マイティやらアンミカやらインフレゲーを経験しテンゴ東南とかいう旧石器時代ルールでは満足できない体となる。天鳳は前半こそ鳳凰卓で粘っていたが後半は九段タッチの栄光を忘れられず特上卓を彷徨う亡霊と化す。現在は勝てるからという理由でジャンタマを始めたが天鳳も辞めたつもりはなく運の風が吹いたら再開しようかなと思っている。

母が死んだ

母が死んだ。末期ガンだった。

俺の年齢を知ってる人は母の年齢も大体想像できると思うが、死ぬには早すぎる年齢だった。

俺にとって母は人生で出会った中で大切な人ランキング同率1位の内の1人であり、2人で海外旅行に行った事もあるくらい仲が良かった。

 

マック家は先月娘が産まれた。母にとっては待望の初孫である。LINEで娘の写真や動画を送る度に、キャーキャー言って喜んでいた。

俺の地元は北海道とはかなり距離があるが、両親2人で孫に会いに北海道まで来る予定をしていて、双方ともその日を心待ちにしていた。

母親の状態を知らされたのはほんの10日ほど前、北海道に来る前日だった。ガンの複数転移が見られ余命1〜2ヶ月と宣告されている事、食事もあまり摂れていない事等。

その日から今でもまだ現実を上手く受け止められていない。とりあえずボロクソに泣いて、なぜもっと早く教えてくれなかったんだと嘆いたが、どうやら心配させまいと黙っていたらしい。

本当は旅行中も黙ってるつもりだったらしいが、明らかに分かる状態だったので父から打ち明けられた形。

とは言えそこまで変わって無いだろうとタカを括り迎えた当日、夕方に空港まで両親を迎えに行った。

その時登場した母は車イスに乗り、明らかに今までの覇気は無く、声にも力が無かった。この旅行の為に副作用がキツい薬を頑張って飲んで準備してきたらしい。

旅行は3日間で、初日は時間を取って長めに娘に会わせ、3日目も少しだけ会わせる予定だった。

空港から出る前、母は一度ホテルに行って休みたいと言い出した。しかしそうなるとその日はもう会えないかもしれないし、既に食事も用意してもらっていた等色々都合が悪かったので、俺と父は母を娘のもとに連れて行った。

今思えばここで少し無理をさせてしまったのが死期を早めてしまったのではないかと後悔している。ただ初孫に会うのが今回の目的だからなあ…という気持ちもあり非常にやるせ無い気分ではある。

ともかく念願の初対面を果たした母は実に幸せそうだった。本来であれば何時間でも居たかったのだろうが、やはり体がしんどかったようで早めに切り上げてホテルへ戻った。

翌日を迎えたが体調は一向に良くならず、予定していた観光もとてもできる状態では無かった為、ほぼ1日ホテルで過ごし、最終日もほんの少し孫の元へ寄った後直ぐに飛行機に乗り帰宅。翌日から即入院する事となった。

これで容態も少しは安定するだろうと一安心したのも束の間、1週間もしない内に病院から危篤の知らせがあり、すぐに当日の飛行機を取り地元の病院へ向かった。

搭乗前にビデオ通話で「今から行くよ」と伝えた時にほぼ聞こえない声で「待ってるよ」と応えてくれた。しかしその後病院に着いた頃には意識が朦朧としていて意思疎通ができず、これが最期の会話となった。

こういう時のためにできれば地元の近くで働きたかったとか、もっと早く病気の事に気づいてやれればとか色々思うところはあるが、孫の顔を見せてやれた事に関しては最後に少し親孝行出来たのではないかと思っている。

 

安い言葉だけどこれを読んでくれた人で身近にいる大切な人がいる人は、生きているうちに感謝を伝えるとかモノを贈るとかなんでも良いけどできる事をしてあげて、いざという時に後悔の無いようにしてあげて欲しい。

 

じぇるプロ他皆様へ ご報告

 じぇるプロへ

 私マック04はこの度V段へ降段しました。

 つきましては、誠に勝手ながら同じVの称号をプロフィールへの記載に使用しました事をこの場を借りてお知らせ致します。

 

 皆様へ

 私より段位が上の皆様に対しては今後尊敬語と謙譲語を駆使してお話し奉ります。

 なお段位マウントや誹謗・中傷の類に関しては甘んじて受け入れますが、逆の立場になった際はくれぐれもご覚悟ください。